2004年 日本の旅 (抄訳)
ヘレン・サラキノス
(リバーアライアンス オブ ウィスコンシン)

原文は下記のサイトに掲載されています。
http://www.wisconsinrivers.org/helen.diary.html

翻訳 大塚照代 (稲見哲男 衆議院議員事務所 公設秘書)


3月、ヘレン・サラキノスは、ウイスコンシン州のダム撤去の成功例を伝えるために出かけた。
アメリカン・リバーズのエリザベスとともに、ダム撤去委員会国際会議に参加した。

3月26日 岐阜からおはようございます!
今日は金曜日。時差で眠れなくなったので「日本旅日記」をはじめました。嵐のような私たち一行の旅は天野礼子さんのことでいっぱいです。彼女は、私たちの招待者であり、頑固な釣り人です。60年代後半、70年代の社会運動を経験している、「活動家」世代の一人と聞いています。高木さんは、長良川河口堰反対運動のリーダーです。ラフティングを愛する質素な人です。照代さんは、国会議員から「借りてきた」臨時の仲間で、機転の利く通訳をしてくれます。エリザベスは、アメリカン・リバーのダムの"プラグを抜け"キャンペーンの担当者です。そして、私。昨日の夕食を彼女たちと一緒にしただけで、川を守る熱意は、おいしい食べ物とお酒への愛しか張り合うものがないとわかりました。

ホテルの外には長良川が流れています。1988年までは、日本ではたったふたつ、そして本州ではたったひとつしかない自由な川でした。天野さんと高木さんは、長良川河口堰に何年も反対をしてきました。やれることはすべてやってきました。集会、デモ、国際会議、ハンガーストライキ、水門が閉ざされるその日にはボートで水門の下まで行き抗議をしました。長良川は、150キロぐらいの長さですが、しなやかで情熱的です。魚のたくさんいる川です。1988年に河口堰が造られると、川は海と隔絶されてしまいました。海水混じりの川水は死んでしまい、10フィートのヘドロが溜まっています。これは何のため?ダムは何の役にも立っていない。ダムの水は誰にも使われていない。私たちの仲間は、なんでこんな苦労をしなくてはいけなかったのかしら。今日は、さよなら。

3月27日 長良川 ― 長くて、すてきな川
ホテルの部屋の電気ポットからお湯を出すのに一苦労。小さな勝利、お湯が出た。出発。今日は、高木さんではなく、ナイフ製造会社に勤めていた河合さん。河合さんは、有機農業をやっている。汚れた水を野菜にやっているのを心配している。河口堰が原因だという。農民は川を守るのは当然と思っている。
長良川は漢字で書くと長くてすてきな川。本当にその通り。川辺を通り、この川のそばに住む人たちと話をする。一日いると、長さこそは違うけど、その周辺の文化と環境は、ミシシッピ川を感じさせます。この川は、天皇家のためにあり、天皇家のためにだけ鵜飼がなされてきたという歴史を持つ。だから人びとは、この川を大切にあがめてきた。1960年代、70年代の「日本列島改造論」が盛んな時代に、建設省は日本政府のキングコングになって、川を食い荒らしたのです。首相たちは、長良川を標的にしたのです。

天野さんはとっても怒っていました。意味のないダムを長良川につくるなんて。河口堰自体はつくられてしまいましたが、ダムの反対運動は、日本に公共事業を改革することを綱領に掲げるつよい野党政党ができるのに大きな貢献をすることになりました。戦いには負けましたが戦争には勝ったという顕著な例です。ダム建設の問題が国会で議論されたのは、長良川河口堰がはじめてです。それまで、公共事業は日本では官僚と政治家の"特権"と考えられてきたのですから、すごいことです。

長良川河口堰ができてから、河川局はこれ以上ダムをつくらないということを言い出しました。これは天野さんの努力が身を結んだのです。
ここからが、私たちの本来の活動になります。3つの公式行事の中で、私たちはどうやったら日本のダムの問題を解決するために、アメリカの経験が役に立つのかを話します。プレスの人たちは、このダムをどう思うとか、ダムは全部撤去すべきなの、とか、なんでダムは悪いの…などたくさんの質問をしてきます。どれだけ報道されるかなあ。ここは日本だけど、気分はアメリカと同じ!歴史や政治を別にしても、日本の人たちがなぜ長良川を愛するのか本当にわかります。松本に移動する途中に、あまごを食べました。そこのシェフもまた、ダムに反対しています。私たちのシンポジウムのちらしを持っていました。わざわざアメリカから来てくれてありがとうとおっしゃいました。

3月28日 仏教徒とダム・バスター
仏教徒のお寺での国際会議。お寺では、スリッパで300人の前でプレゼンテーションをしなくてはなりませんでした。2時間のマラソンセッションをプロの通訳の人たちと一緒に走りました。シンポジウムは大成功でした。私とエリザベスの年齢を足しても、日本人スピーカーで一番若い人の年齢にもなりません。ダムの反対運動を代表する3人の日本人スピーカーはダムができる前の生活をしっかりと記憶しているほど高齢の方たちでした。3人とも、国や企業からダムができると生活が良くなると言われたこと、でも洪水がもっと頻繁になったこと、先祖代代の農地が浸水してしまったこと、魚がいなくなってしまったという共通の経験を持っています。だからこそ、政府や企業を相手に闘っているのです。山住さんは、なんてすばらしいというべきか、83才です。那珂川のダムの反対運動を1960年代からしていますが、ダムの反対運動があるからこそ若さを保てるのだよと教えてくれました。「ダムがある限り、朝起きなくてはならないのですよ。」と。8年後に水利権の更新期日となるそうですが、その時もまたお元気でしょう。日本アルプス山脈に抱かれ、お釈迦様の微笑みのもとでスリッパをはいたこうした怒りに燃えた先輩たちとお話をしていたら、この世に生まれてきたことが幸せに思えました。

国際会議は、お寿司もあるブッフェスタイルのパーティでしめくくられました。スピーカーや国際会議のオーガナイザー全員が集まりました。オーガナイザーのひとりでもある大学の文学の先生(ゆかたをきてらっしゃいました。)とエドワード・アビーの「モンキーレンチギャング」の話をしたのは印象的でした。

3月28日
日曜日の朝は温泉の大浴場ではじまりました。ダム撤去委員会のメンバーである私とエリザベスは他のメンバーと一緒に(実はこの朝まで委員会のメンバーだということを認識していませんでした!)、天竜川のダムの見学です。この川にはたくさんのダムがありますが、10ヶ所に水力発電ダムができた時に、その残酷な運命は決まってしまったのです。天竜川は、「日本政府は決して間違いを認めない」ということを示す例です。

天竜川は、本州から四国に延びている日本で最も大きな活断層に沿っている。ダムをこうした活断層のところにつくるなんて率直に言って問題がある。政府は活断層の存在を市民には示さずにダムの建設を認めていった。美和ダム付近では、松下先生の努力で活断層を示す説明図があります。私たちにとってもとてもいい説明の材料になります。
活断層は次のようなことも語ってくれます。美和ダムには、たくさんの堆積物が沈んでいます。そしてそれが水力発電をする能力を美和ダムから奪っています。国土交通省は、8キロの長さのバイパストンネルを建設しました。堆積物を下流に流すためです。日本でのこんな試みははじめてです。その価格票は5億円!もっとショックだったのは、日本の政府がたった25メガワットの電力しか発電しない水力発電ダムの堆積物の処理にこんな大金を使おうとしていいることでした。25ワットってクロイックス滝のダムの電力と同じ。

天竜川のほとりの日本式旅館で一日は終わりました。お茶を飲みながらきれいな緑色の川に落ちていく日没を見ました。夕食は、この地域の伝統的な鯉料理、野豚、馬でした。それから、かいこの煮つけ。正直言って、何匹か食べてしまうまでは、何だかわからなかったのです。でも、とっても歯ごたえがありました。鯉の皮のサラダは多すぎました!

3月29日 東京と、日本のTom・Daschel(米国民主党の院内総務)=菅直人
石の上を流れる川の音を聞きながらその日の午後の国会議員との会合の準備をしました。東京では、たったの4時間しかありませんでした。約20人の国会議員と秘書の皆さんの前でプレゼンテーションをしました。民主党の党首を含む野党の政治家たちです。
私たちは、次に日本の首相になるかもしれない人の前でダム撤去の話をしたのですが、緊張する間もないほどあわただしかったです。会議の時間は短かったのですが、議員の皆さんの質問はとても難しかったし、考えさせられるものでした。ダム撤去は日本では経済問題です。

野党である民主党は、議員が得するような公共事業の性質を変えようという立場にたっていますが、ダムはお金のムダ使い場所だという議論をせざるを得ません。ここで、私は、ひとつの国家が他国の経験や過ちから学ぶということの意味をはっきりと理解しました。アメリカは日本よりも半世紀先にダムをつくりはじめ、今、その老朽化という問題への対処をせまられています。菅代表を見ながら、「ウイスコンシン・リバー・アライアンスは、地球の反対側にあるこの国の川をよみがえらせるために役に立ちそうだ。」と思いました。たった4時間の仕事としては悪くないわね。

3月31日 今日は、観光客の一日
昨日の夜遅くに旅館につきましたが、本当に美しい着物姿の女性が私にスリッパをそろえてくれました。天野さんは、私たちが飛行機を降り立ってからずっと案内をしてくれたわけですが、今回もやりすぎよ!というくらいでした。その旅館では、私たちに気を使っていただいたようで、朝食はトーストとコーヒーでした。私は、日本式の朝食が大好きなのでちょっとがっかりしました。ここは、京都の「貴船」という水の神様の住む高台にある旅館に宿泊させてくれました。平安時代に朝廷が雨乞いをしたところです。恵みの雨が降ってきました。なんて運がいいのでしょうか。天野さんは京都で生まれました。お父さんは着物の創作をされていたそうです。彼女の200枚くらいの着物は着物専用のたんすにしまわれています。

京都は想像したよりも大きな街でした。禅寺で日本庭園を見ました。石でできた庭園が雨にぬれて、それは本当にすてきでした。それから、精進料理をいただきました。ここではじめて、エリザベス以外の人が英語で話しているのを耳にしました。米国人夫婦がまずい食事だと文句を言っていました。この静かなお寺で、この2人の声は耳障りだったし、日本の旅が終わりに近づいていることを思い出させました。法然院の和尚さんは、天野さんの友人で環境問題にとても関心のある明朗な方でした。このお寺の庭園もまた本当に美しく、見渡すものすべてが繊細な美しさを見せています。私は、アメリカ大陸の自由奔放な大胆さも好きですが、こうした日本庭園や盆栽のような熟慮された美しさに目を見張りました。

冷たいビールとお寿司で一日は終わろうとしています。私たちの友人である天野さんは、ダム反対運動のパワーハウスのような人です。彼女は、どうやったらキャンペーンが成功するのかということのお手本のような人です。草の根の人たちを巻き込み、調査を促し、議員へのロビーイングを行い、メディアを動かす。天野さんは、疲れを知らない、大きな声で話す、ボッシーだけど、愛すべき人です。情熱的な釣り人であり、先見の目をもっています。
こんな夢を持っています。自分が年齢を重ねておばあさんになった時、日本では川の保全運動が盛んになり、1000個のダムが撤去されます。この運動がはじまった時、自分がそこにいたことなんかをダムの「ドラゴンレイディ」、天野礼子さんとお酒を飲みながら話をしたいなあ。


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