公共事業の新しい理論を求めて

法政大学法学部教授 五十嵐敬喜


その1 "亀井"をどうみるか

"公共事業"が争点となった衆議院選挙が終わった翌日に、1994年から共に公共事業を追求してきた天野礼子らと、旅に出た。

オランダのライン川の河口堰のゲートの解放の調査を皮切りに、ブラジル・クリチバのエコシチィ、アメリカ・コロンビア川の4つのダムの撤去など欧米公共事業の現場を見るその旅先に、少しずつ、日本でも改革の風が吹き始めたというニュースは伝わってきた。そしてそのニュースは、私たちが誰よりも早くオランダのゲート開放のニュースを伝えたかった諫早湾の山下弘文の死という取り返しのつかない代償と引き換えででもあるかのように、みるみるうちにニュースの世界から、いかにもリアリテイのある現実になっていった。

日本に唯一残されていた神話、「公共事業は一度計画されたら絶対に倒れない」(自民党の永久性と、もっていれば必ず値上がりするという土地神話と並ぶ)が、崩れる日が目前になったのである。長良川や諫早湾のゲートが、理不尽に、封鎖されたあのときの光景を二重写しにしてみると、「隔世の感」がある。

中海、吉野川の工事中止が伝えられる。転機の最大の原動力は、市民であった。市民がいなければ、衆議院選挙における自民党の敗北はありえなかったし、敗北した自民党が、来年の参議院選挙の敗北をここまで恐れおののく、ということもなかったであろう。

それでは公共事業は本当に変わるのか?
当初私はこのコーナーで、私がこの眼で見てきた世界の公共事業の「転換」、すなわち新しい理論、小さな技術、地域的な実験、それを支える市民とシステムを紹介するつもりであった。それを見れば誰しも、これらの国々と日本の間には、ダムや高速道路の行方といったことだけでなく、豊かさ、幸福とは、そしてそもそも人間とは何かというようなことからして違ってしまっているのだということがわかって頂けるのではないかと思ったからである。
しかし日本の状況は急を告げている。そこで論を迂回させ、日本から始めることにした。その1というのはそのためである。まず幾つか気になることをメモしていこう。


逆行した行政改革

今回の主役は見るところ、亀井前建設大臣、現自民党政調会長である。選挙でもっとも強く公共事業の改革を訴えた民主党など、野党は残念ながら、そのスピードから取り残されている。これをどう見るか評価はさまざまであろう。"亀井"には、パフォーマンス、選挙対策、疑惑隠し、いろいろなことが言われる。しかし彼を上回る動きは、かつて改革の旗手として圧倒的な支持を受けた細川内閣も、絶好の機会として先頭に立つべきであった社会党の村山も、財政構造改革や行政改革を引っさげて切り込もうとした橋本内閣も、出来なかったのだということを忘れてはならない。
今回マスコミはよくがんばっているように見える。旧来の土建勢力の包囲網の中で、"亀井"が、とにもかくにも頑張っていられるのはこのマスコミの支援が大きい。
しかしよく見ると、亀井改革には弱点がある。それは改革とは何かという基本的な論点と関わっている。
周知のように、最近「失われた90年代」という言葉が流行するようになった。「失われた」というのは何もしなかったというのではない。それどころか橋本6大改革を思い出せばすぐわかるように、90年代というのは改革という言葉が溢れていた時代であったのである。行政改革、金融ビッグバン、地方分権、規制緩和などの言葉が毎日、日本中をかけめぐっていた。それにもかかわらず、「失われた」のはなぜかを考えてみなければならない。事が終わってから、したり顔して、改革の挫折、あるいは不徹底などというのは卑怯である。なぜそれらが、挫折したのか、あるいはどうしたらそれらを実現できるのかが問題なのである。過去、こういう問いが出されると、何やかにや議論が堂々巡りしたうえで、結局国民がだめだからだというのが落ち着く先であった。しかしこの問答には、改革とは一体どういうことを言うのかという定義がほとんど欠落している。
もう、これまで何回も言っていることであり、また、世界中の常識でもあるので、詳しくは言わないが、「改革」とはそれを呪文のように唱えることではなく、最も端的に言えば法律(予算や制度を含む)を変えるということなのである。そしてこの角度から90年代の公共事業をみると、行政改革の名のもとで、世界最大の巨大官庁である「国土交通省」が出現(今から4ヵ月後にこれが動き出す)することに象徴されるように、「失われた」のではなく、スリム化するという、みなが合意した改革と正反対の改革が進んだのである。規制緩和、地方分権も同じようにマヌーバーとして利用された。これに、政党はもとより、市民も負けたのである。


法律を変えよう

言い換えれば、中海の干拓や吉野川のダムを止めてもらうのは大変結構なことであるが、それにも増して、今回もどの法律がどのように変わるのか、注意深く、見なければならない。法律が同じであれば、"亀井"がどうにかなったら元の木阿弥になるからだ。ちなみに総括的に言えば、大きなパフォーマンスにもかかわらず、国土交通省を始め、何百とある公共事業関連の法律、そして財政投融資を含めた40兆円にものぼる予算は今回も何も変わらない。「無駄」は強調されたが、それが国を滅ぼす財政破綻の主役であること、もう日本には子供たちに引き渡す自然など一つもないことなどについては、彼はひとつも発言していない。マスコミもまた沈黙したままである。
確かに、中止の基準として「5年以上過ぎても未着工なら中止」等という「政策」が打ち出され、これが派手に取り上げられている。しかしこの政策は、何も目新しいものではなく、古くは北海道の「時のアセスメント」として始まり、いまや全国自治体政策評価の花盛りとなっているではないか。政府も当時、橋本前総理大臣が評価し、建設省に対して「公共事業の再評価実施要綱」(1998)を作らせた。
しかしこれまでこれらの政策によって、事業が中止されたという情報は、松倉ダムなどを中止した北海道など一部を除いてほとんど聞かれなかった。政府の方もことは同様である。したがって、ここでもまた論点は今までこの政策はなぜ有効でなかったか、あるいは今後はどうしたら実効性があがるかということである。
 私は一年前に、長良川の導水路事業の必要性について、北川知事の陣頭指揮のもと政策評価のパイオニアとして名高い三重県と、愛知万博の推進に躍起になっていた愛知県を訪ねた。応対してくれたのはいずれもいかにも善良そうなお役人さんであったが、肝心の話になると、なぜ必要かというこちらの質問には全く答えないで、言わば、具にもつかないことを、ながなが、ぺらぺら喋るばかりであった。あるいはどこにでも有りそうなパンフレットすら、裁判に使われるかもしれないとして隠してしまったのである。現場には工事の続行を命じる、法律と予算だけがあるのだということを知らされた。勿論、このようなことは自治体職員にだけ見られる現象ではない。シンポジウムの帰りに、あるいは、オフレコの会合などで、法律と予算を動かし、まもなく「財務省」や、それこそ「国土交通省」のトップにでもなりそうな超エリート官僚が「日本はいきつく所までいかないと、もうどうにもならない」と本音でかつ自嘲気味にいうのを何度も聞くようになった。政策不在という点ではどちらも同じであり、あたかも崩壊寸前のかつてのソビエトを想起させる、のである。
 それゆえ、私たちは、5年たった事業で実施されていないものは、官僚の判断にまかせないで、すべて自動的に失効するものとし、どうしても継続したい場合には、官僚ではなく、国会が判断するということを骨子とする「公共事業コントロール法」を国会に議員立法として提出した。
 にも関わらず、亀井はもとより、選挙の敗北をうけて、新しい政治を強調する自民党若手の中でもこれを本気で追及する国会議員がほとんど現れないというのはどういうことであろうか?
 


談合と賄賂に厳罰を

中止と引き換えに、予算を減らしたくない、あるいはこの混乱に乗じて逆に増やしたい(財政法4条をめぐる論議を見よ)ということもあってか、「時代にあった公共事業」の声が強くなってきた。「IT革命と公共事業」あるいは「教育政策と公共事業」といったものがそれであるが、その大仰な掛け声にもかかわらず、その中身を見ると、電源を地下に埋めるとか、子供たちにパソコンを一人一台ずつ持たせるというような類であり、おもわず、失笑させられた。それだけでなく、そのようなレベルのものが審議会の答申となったり、さらにはマスコミなどで学者が発言しているとか、あるいは与野党の間で議論されている等と聞くと、失笑を超えて涙がでてしまうのである。
 難しいことは言わない事にしよう。国会は、馬鹿げた事業にこれ以上金を使わないということをはっきりさせる、子供にたいして教育が必要だというなら、事業誘致や着工に狂奔(今も)している政治家(自ら)、官僚、そして企業に、「もし赤字がでたらその費用は自分で責任を持つかどうか」一筆をとる、それでよいのである。
 マスコミも市民も、電線の地中化やパソコンにだまされないで、談合と賄賂を行ったものを厳罰(企業の免許取消、官僚や国会議員の永遠の資格剥奪)にする法律の制定を進めなければならない。それらが全部棚上げにされて進められているのが今の状況なのだ。

とりあえず、旅の間に、そして終わりに考えたことはそのようなことであった。こんなことを書き連ねていくと、ヨーロッパやアメリカの動きをレポートするのが、辛くなる。当たり前のことだが、これらの国では、例えばダムの開放や撤去が、市民だけでなく、自治体、あるいは国のもっとも大きな政策として、全力で取り組まれている。EUも国連も、それぞれの仕方でこの動きを加速している。
中尾という前建設大臣が逮捕されたこと、まだダムの計画が300も残されていることなど、日本の公共事業の現実を伝える旅は、それだけで決して愉快なものではないうえに、通訳が日本の公共事業の巨大さを正確に伝えるために、「兆円」という単位を、紙に書いて、何回伝えようとしても、どこでも、ほとんどまともに聞いてもらえなかった、ということが最初に浮かんできて、ついつい、何もかも放り出してしまいたくなるのである。


ホームへ戻る