長良川河口堰問題略年表

1959年   長良川逆潮堰の構想生まれる。
  9月 伊勢湾台風
1960年 1月 建設省中部建設局で長良川河口ダム構想生まれる。高度経済成長始まる。
1963年 11月 木曽川三川河口資源調査団「KST」が結成、調査活動を開始。
1965年 6月 木曽川水系水資源開発基本計画(フルプラン)策定。
1968年 10月 長良川河口堰建設の基本計画が閣議決定。
1970年 4月 利根川河口堰完成。
1973年 3月 金丸建設大臣、長良川河口堰建設事業を認可。この時、「土工協」(日本土木工業協会)が間に入り、大成・鹿島建設が談合を行っていたことが、のちに発覚する。
  12月 流域全漁協を中心とする原告団2万6千名の河口堰建設工事差止訴訟が提訴。
1976年 9月 岐阜県安八郡で台風17号のため長良川右岸堤防決壊(安八水害)
1978年 9月 岐阜県知事、河口堰着工に同意。
  3月  河口堰建設工事差止訴訟、取り下げ。
1982年 4月 流域住民が改めて差止訴訟を提起(1994年7月、岐阜地方裁判所が棄却)
1987年 4月 三重県の利水負担の一部を愛知県が引き受けることで三重県が同意。
1988年 2月 最後まで反対していた赤須賀漁協など3漁協河口堰着工に同意
  3月 水資源開発公団と、鹿島建設、大成建設、五洋建設の三社共同企業体との間で長良川河口堰建設請負契約が締結。
1989年 7月 長良川河口堰建設工事着工、総事業費1,500億円。開高健を会長、天野礼子を事務局長とする「長良川河口堰建設に反対する会」が設立。前後して新たな反対運動の組織が次々と設立。
1989年 12月 国会内で超党派国会議員による「長良川河口堰問題を語る会」設立。
1990年 11月 北川石松環境庁長官が現地視察。
  12月 北川長官は「河口堰は治水、生態上疑義あり」と環境庁の見解を発表。環境影響評価の追加実地を建設省に求める。また、国土庁長官に対しても水需要計画の見直しを要請。
1991年 11月 建設省が国会答弁で長島町に塩害のないことを認める。(治水論の崩壊)
  12月 NHKのアンケートで、流域住民の70%以上の反対の意思表示。
1992年 10月 「反対派に会う」と公言していた山崎拓建設大臣との面会を求め、19日間のハンガーストライキが行われ19日目に天野が倒れる。
     
  11月 このハンストと引き換えに建設省とダム反対市民との公式の話し合いが、「テープなし、速記なし、非公開」の条件のもとで日本で初めて始まる。
    長良川NGOは53団体で集約し、「長良川河口堰建設をやめさせる市民会議」を結成。
1993年 3月 国土庁が木曽川水系水資源開発基本計画の見直しを発表。水需要予測は大幅に下方修正しながらも、徳山ダムの完成を2002年にずれ込ますことで(基本計画を2000年までの予定にして)、長良川河口堰事業は継続して盛り込まれた。
    現地長島町漁師7名らが、建設省と水資源開発公団を相手に、長良川河口堰建設等差止訴訟を提訴。
1994年 1月 長良川NGOの働きかけで国会内に超党派の「公共事業チェック(機構)を実現する議員の会」が結成。長良川NGOがその事務局を頼まれ引き受ける。
    五十嵐建設大臣が反対派代表と建設大臣としてはじめて大臣室で会見。
  3月 建設省が試験湛水の年間計画を発表。
  4月 調査に試験湛水が含まれると、調査によって「長良川の死」が始まってしまうと、「長良川河口堰建設をやめさせる市民会議」がゲート下に船を固定し、無期限船上ストライキに突入。翌日から予定されていた試験湛水を実力阻止。
    建設大臣と「やめさせる市民会議」は、双方の民主的ルールの尊重と話し合いの継続を話し合う。大臣は試験湛水開始の延期と期間短縮を発表。
  6月 調査委員会の水質・底質ワーキンググループが「第一回の試験湛水の3日間で川底の水中酸素量が予想以上に減少し、あと二日間ゲートを閉め続けていたら底生生物が死んでいただろう」と発表。
  7月 五十嵐建設大臣が約束した、建設省と「やめさせる市民会議」の初の公開(テープあり、速記あり)での話し合いを実地。
    岐阜地方裁判所が長良川河口堰建設差止訴訟の判決。堰建設の意義を認め、原告の請求を棄却。原告側控訴。
  8月 6月30日に就任した野坂浩賢建設大臣と「やめさせる市民会議」が大臣室で会見。「市民会議」が推薦する地震専門の調査委員の追加と、伊勢湾内の活断層の調査等調査項目の追加を大臣が了承。
  12月 野坂建設大臣が現地を視察。推進・反対派の視聴から意見を聴取。自治労から「円卓会議」方式での解決が提案される。
1995年 1月 兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)。活断層への関心高まる。
  3月 長島町で長良川河口堰に関する円卓会議が、防災・環境・水需要・塩害のテーマで開かれる。
  5月 野坂建設大臣、22日に長良川河口堰の本格運用開始を発表。産経新聞以外の新聞各紙は一斉に大臣決定を批判する社説を掲載。国内外の多くの市民団体、環境保護団体が大臣決定に反発。
  6月 「やめさせる市民会議」代表天野、建設省前で抗議のハンガーストライキに突入。「公共事業チェック機構を実現させる議員の会」事務局長高見裕一代議士、「公共事業コントロール法」の制定を五十嵐官房長官に申し入れ。
    野坂建設大臣、「ダム建設に対する評価システムを新設する方針」を決め、7月より「ダム事業審議委員会」の設置準備に入ると発表。ダム事業以外の大規模公共事業にも「大規模公共事業に関する総合的な評価方策検討委員会」を8月末発足させることを表明。
  7月 1日、反対派市民・学識経験者による「長良川監視委員会」を発足。
    5日、ハンスト23日目に天野が倒れる。
    6日、長良川河口堰のゲートが全面閉鎖される。
    建設省、「ダム事業審議委員会」の設置・運営要領を各地方建設局長などに通知、委員の推薦は当該知事に依頼された。
    野坂大臣が「問題があればゲートを上げることができる」と学識経験者に委嘱した「長良川河口堰モニタリング委員会」発足。
  8月 長良川のシジミが激減していることが建設省のモニタリングでわかる。
  9月 河口堰上流でアオコが発生していることが報告される。
    中部地建と市民との「新しい対話」が名古屋で開かれる。
  10月 中部地建と市民との第2回「新しい対話」が公開にて岐阜で開かれる。
1996年 5月 「公共事業チェックを実現する議員の会」や長良川NGO・ジャーナリストが合同でアメリカを視察。
  9月 「国際ダムサミットin長良川」へ、前米国内務省開墾局総裁ダニエル・ビアード氏らを招き、アメリカの河川政策の転換と世界的な傾向を学ぶ。
1997年 3月 建設省は100年間使ってきた河川法に「環境重視」、「市民との対話」を盛り込む。
    406団体を募り「公共事業チェックを求めるNGOの会」が結成される。
  9月 「世界水資源会議」を「やめさせる市民会議」が主催。世界銀行やワールドウォッチを招く。
1998年 9月 「救え全国の山・川・海行動DAY」を「やめさせる市民会議」が主催。
1999年 7月 シンポジウム「長良川河口堰運用5年目、被害の実態を科学が問う」を「やめさせる市民会議」が主催。
    「長良川の救済を考える議員・OBの会」が野党党首や元環境庁4長官の呼びかけで発足する。
  10月 国際会議「公共事業、世界の潮流・日本の逆行」を「やめさせる市民会議」が開催。ドイツ、オランダ、米国、ニュージーランドの海外ゲストから川の再生化についての報告を聞く。
2000年 2月 漁協内において河口堰での被害についてアンケートをとった長良川流域の二漁協の組合員らと「長良川の救済を考える議員と議員OBの会」が、環境庁自然保護局へそれぞれ別の要望書を提出。
    WWFは99年5月のラムサール条約第7回締約国会議において、「生きている水環境キャンペーン」の開始を宣言。日本の長良川を持続可能な流域管理のモデル地区に選定し、予備調査を開始。
    世界ダム委員会のハノイにおける東アジア及び東南アジア会議に「やめさせる市民会議」が出席。
  3月 1995年の運用開始から5年間、長良川河口堰が自然環境に与える影響を調べてきたモニタリング委員会は「長期的にモニタリングを行うことが必要」とする提言を建設中部地方建設局などに提出、委員会は解散した。
  5月 シンポジウム「運用発言より丸5年、長良川は今」を「やめさせる市民会議」が主催。法政大学五十嵐教授と長良川NGOから提案の“公共事業コントロール法”を再提出した民主党の菅直人政調会長が長良川河口堰を視察。
  7月 津地裁で門前払いされた住民訴訟を名古屋高裁が差し戻し判決。

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