VOL.30-4

長良川河口堰運用による生態系の変化
岐阜大学地域科学部 粕谷志郎(長良川下流域生物相調査団)

 長良川河口堰は、1995年7月より本格運用に入った。公共事業のあり方、環境問題、治水・利水問題等様々な問題を投げかけてきたが、背景に膨大な生態系の調査が存在することは他に類を見ない。これらの調査は、事業実施側も、学者グループも、NGOもそれぞれに行っており、現在も一部が継続されている。概要は以下のようである。

1. 汽水域の消滅 
汽水域は、淡水と海水が、周期的(干満、大潮?小潮)かつ動的(鉛直方向の塩分濃度勾配?水平方向の濃度勾配)に混合し、多様な環境をつくり、面積あたりの生物の種と量は地球上でも有数である。河口堰により海水の溯上は完全に阻止され、軽い淡水は十分混合することはなく上層を形成し、下層の海水と境を画すことになる。その結果、堰の下流では低層の溶存酸素が著しく低下した。このことは、ヤマトシジミなどの汽水性動物に壊滅的打撃をあたえ、ヤマトシジミは浅瀬を除き、ほとんど死に絶えた。さらに、底部で常時生ずる逆流は、有機物を含む土砂を堰に向かって運び、堆積させる。底生動物はほとんどが死にたえており、有機物の消費者も無く、堆積し、腐敗し、ヘドロとなっている。

2. 湖沼化
 長良川のリン・窒素濃度は、岐阜市(河口から50km)を越えたあたりから著しく上昇する事が知られていた。このため、河口堰により流れが停滞し、藻類の大発生が繰り返された。今まで報告の無かったアオコの発生もしばしばとなった。夏期に温度躍層が形成され、川底が無酸素状態になる現象も確認された。
堰の上流の川底にもヘドロが堆積し始め、メタンガスの発生も顕著になった。天然の浄化装置でもあったヨシ原は、河口堰と関連の工事で約300haから100haほどに減少、その後も失われ続けている。さらに、最近指摘され始めているのが、松の枯死である。揖斐川と分流した堤には松が植えられ、かつてこの難工事を行った薩摩藩士を偲ぶ「千本松原」が維持されている。湛水による影響はまだ解明されていないが、貴重な史跡が損なわれる可能性が高くなっている。

3. 回遊魚等の通過障害
 アユの総漁獲量は、過去、永きにわたり放流漁獲量(注1)をはるかに上回っており、両者の差は天然アユの漁獲量と推定されている。河口堰運用の1995年以後は、両者のグラフは逆転し、天然アユの推定漁獲分が完全に失われてしまった。漁獲量そのものも減少し続けている(図1)。本流にダムの無かった長良川は、天然のサツキマス(降海型アマゴ)が上る数少ない清流であった。しかし、その漁獲量も最低値を更新している(図2)。

4. 漁業、観光へのマイナス効果
 堰上流でも、徐々にヤマトシジミが減り、やがて、放流したヤマトシジミさえ獲れなくなった。さらに、淡水性のマシジミさえも激減してきた。すくい上げられるのはゴミばかりで、長良川の川底は、シジミの生息できる環境ではなくなった。シラスウナギ、モクズガニ、テナガエビなども消滅か厳しい減少を示している。
 宮内庁の鵜匠によって執り行われる、1300年の伝統を誇る長良川鵜飼いの凋落はめざましい。岐阜市の長良河畔にあるホテル街は、次々に廃業に追い込まれている。

5. 新たに発生した飲料水の懸念
 知多半島では水道水が「臭い、刺すような味」と言われ、木曽川の水に戻すよう運動が進められている。河口部には下水・廃水、汚水がそそぎ込み、富栄養化した水には藻類が発生するなど、飲用とするには危険な要素が多い。アオコを形成する藻類の毒素(ミクロチスチン)や、塩素によって発生するトリハロメタンには発癌性が指摘されている。水道水の汚染で集団下痢症を引き起こすクリプトスポリジウム(原虫)は直接蛇口まで到達する。さらに、内分泌撹乱化学物質がほとんどの河川の下流部で検出されることは、今や常識となっている。私達の調査でも、長良川の水から明瞭な女性ホルモン様作用物質が検出されている。こうした、危険性が不可避な河口部に貯めた水を飲用に用いることは、人道的にも許されることではない。

6. CVMによる環境の経済評価
全国の年間支払意志額の総和=2,627億円
 東海三県(岐阜県・愛知県・三重県)の支払意志額を世帯あたり1万円。
 それ以外の地域の支払意志額を世帯あたり5千円。
(全国5000通の郵送アンケート、ダブルバウンド、税金方式)
後藤理絵、粕谷志郎 長良川河口堰によって失われた環境のCVM (Contingent Valuation Method)による評価 「水資源・環境研究」Vol. 16; 41-48, 2003
河口堰によって失われた自然環境の値段は、建築費の約1,500億円を遙かに凌ぐ。

7. ゲート開放により回復が予想される項目
 堰によって形成された物理的変化は、ゲート開放によって一瞬にして消滅する。また、流れの回復は藻類大発生の重要条件を抹消する。回遊魚の遡上、降下は理論的には障害が消滅する。新たなヘドロの堆積はなくなる。堰運用による変化が急激であったと同じように撤去による「効果」も劇的である。しかし、生物資源が回復できるかは別問題である。堰の上下流底質はヤマトシジミの生息に不具合な状態にあり、早急な回復は望めない。しかし、秒6,000?にものぼる出水があれば、ヘドロの上に砂地が回復する(1999年9月15日の場合)。その後は、揖斐川などのヤマトシジミを放流すれば、定着は可能と予測される。
 アユ、サツキマスはこの部分を通過するに過ぎず、遡上可能な生物資源が残存してさえていれば数年から十数年でかなりの回復が期待できる。
 堰の開放により、水位の高低差が再び2m以上におよぶと見込まれるため、ヨシの生育に好条件を与える。移植等も含めれば、比較的回復は早いと予想される。松の枯死が、沈水によるものであれば、新たな発生は大幅に減少する。

8. 塩害の対策
 海水の溯上が回復されることにより、地下水に塩水が浸透する可能性はある。しかし、これが粘土層を下から越えて田畑に入る可能性は無いと言われている。さらに、田畑に上流から淡水を流したり、堤防に沿って水路を造ったり、安価で多様な塩害対策は可能である。この地域の塩害発生は、伊勢湾台風(1959年)の被害により、作付け面積900-1,000haに対して、20-40haと最高を記録した。その後はごく限られた範囲に留まっている。同率の塩害が高須輪中に及ぶとする、有り得そうにない想定に立ったとしても、年1,200-1,400万円程度の被害である。年間の堰運用費や補修費に比べて、はるかに少額である。また、こうした危険の予測される田畑を買い取り、湿地、氾濫源の再生に当てる方策も検討に値する。
 北伊勢工業用水の取水口を、塩分の混じらない上流にすげ替える。また、飲用水は、河口部の水に頼らず、第一義的に中・上流での取水したものを当てる。

9. ヘドロの中の有害化学物質
 ヘドロは厄介な問題である。ヘドロ中に有害物質が堆積した場合は、ゲート開放が諦められなければならない場合も生ずる。長良川の底質のビスフェノールAの測定値を図3に示す。ビスフェノールA(注2)は環境ホルモンの仲間に含まれ、ダイオキシンやPCBなどと同じく水に溶けず、懸濁物質として、流速の遅くなった箇所で沈殿し、ヘドロに混入する。河口堰直上ではむしろ低い値になってくる。さらに、重金属も測定の対象としなければならない。長良川の場合、上流に鉱山等は無く、それほどの値にならないと思われるが、堆積し、凝集することによって高濃度に達する可能性もある。
 オランダではライン河口のハーリングフリート河口堰の撤去が慎重に進められている。この河口堰は長良川河口堰と全く同じ目的で造られ、同じ問題を持っている。多くのデータを共有できると思われるが、撤去費用の初期段階(2005年まで)だけでもおよそ3200万ユーロ(約42億円)が必要とされている。

(注1)放流漁獲量:漁獲高に占める放流部分の推定値。具体的には放流量を10倍した量。
(注2)ポリカーボネイト(プラスチック)の原料で、製品からも溶け出す。ほ乳びんやスチール缶の内張に使われる。生殖、神経、免疫への影響が懸念されている。

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