VOL31-2

長良川、執念の反河口堰。 運動の生き字引、太い柱  
  名古屋学院大学教授 元朝日新聞記者 渡辺斉
「反ダムの執念」。私がこんな見出しの記事を
朝日新聞夕刊のコラム欄「窓」に書いたのは2003年12月10日のことである。
徳山ダムの裁判を控え、村瀬惣一さんを岐阜市の自宅に訪ね、その時の話をまとめたものである。

 車庫の上に造られた書庫は長良川河口堰やダム関係の資料で埋まり、その山は階段にまではみ出ていた。
「河口堰も徳山ダムも税金の無駄遣いです」
「裁判の結果はどうあれ、水開発が公共事業、官僚の暴走なのは確かです」。
語り口はシンポジウムで何度も聞いた流暢な村瀬節だった。

河川工学を独学で学び、数字がふんだんに飛び出す話は説得力に富むものだった。
2時間も語り続けた。「入退院を繰り返しています」とは言われていた。
小さな細身の体に多少の衰えは感じられた。それでも、体全体から醸し出される空気は熱かった。

まさか、それほど病状が進んでいたとは。天野礼子さんからの電話で悲報を知った時も一瞬、耳を疑った。
もっと聞いておくべきことがあったと悔やまれた。コラム取材で会ったその時が永遠の別れになってしまった。
「三重県が河口堰で開発される水の使い道に困っている」。
私が河口堰問題を真正面から取り上げた記事を書いたのは1979年だった。
朝日新聞津支局に勤務していた。当時の県知事・故田川亮三さんにも取材した結果だった。

以来、四半世紀。河口堰問題に関心を持ち続けてきた。
そんな中で、いわば生き字引として、治水、利水の問題を教えてもらったのが村瀬さんだった。
手元にいただいた部厚い資料が残る。私の電話に、村瀬さんが送ってくれた。1993年12月のことだ。

村瀬さんは治水、利水の問題点を詳細に述べ、建設省の「部外秘」資料も添えていた。
河口堰問題はその資料の指摘といまも変わらない。
亡くなられて2週間後の3月29日、自宅を再訪し、遺影に手を合わせた。
奥さま・たけのさんに経過をうかがい、「がんと闘いながら、
これだけの活動をされてきたとは」と、改めて頭が下がる思いだった。

がんとの闘いは前立腺に始まり、胃、ぼうこう、腎臓と続いた。
それでも法廷に通い続けた。体が思うように動かなくなると、たけのさんが代わって足を運んだ。
2月に入院したころは、医師から「手の施しようがない」と宣告された。
息を引き取る前夜は「えらい」とつぶやいた。しんどいという意味だ。
翌未明に容体が急変し、家族が駆けつけた時は意識がなかったという。

「ダム反対に執念かける」。私は3月末、朝日新聞を退職したが、
4月25日の同紙夕刊の「惜別」欄にそんな記事を書かせてもらった。
その記事の中でも触れたが、遺影の横には朝日新聞社からの手紙があった。
「パズルに当選」という連絡で、村瀬さんが亡くなった直後に届いた。
「パズルが好きな人で、以前から当選して景品の図書券をもらうと、
いつも本屋に駆けて行ったものです。入院後もパズルに一生懸命でした」とたけのさんは言われた。

「あの人は死ぬと思っていなかった」そうなのだ。闘志を持ち続けたままの旅立ちだった。
村瀬さんは郵便局に入り、労働運動に目覚め、やがて活動家に。
社会党、社民連の役員も務めた。だが、河口堰反対への思いは「一市民の怒りから」だった。
その一市民は河口堰反対運動の中で何と太い柱だったことだろう。

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